格闘技

合気道の開祖「植芝盛平」の伝説とは?

今回は合気道の開祖・植芝盛平の伝説について書いていこうと思います。

合気道と聞いて皆さんはどういったものを想像しますか?

襲いかかってくる相手に対し、腕一本で相手をひっくり返したり、簡単に相手の攻撃を無力化し、動けなくしている動画などを見たことがあると思います。

誰しもが、あれは本当なのか?と思うことでしょう。

もちろん私も疑って見たことはあります。

そもそも自分が体験したわけじゃないですからね。

本当の事は体験しないと分からないです。

分からないですが、調べた情報を基に少しでも正しい情報をお伝えしようと思います。

なんていったって合気道の始祖、開祖です!

世界中に広まった合気道の一番最初です!

それでは植芝盛平の伝説を書いていこうと思います。

 

植芝盛平の伝説的エピソード

植芝盛平は、現在では一般的にまで広まった合気道という武道を作った人物です。

1942年、合気道は作られました。

日本古来の柔術・剣術などの武術を研究し柔術を基に作られました。

合気道とは攻撃技がない、自らパンチやキックなどはしない武道といわれています。

相手の攻撃に対して、

  • 相手の攻撃をかわす
  • 相手の死角入る
  • 相手の攻撃を無力化する
  • 返し技の形をとる

このような戦い方です。

開祖植芝盛平ですが、とてもその小柄な体格では考えられないような伝説があります。

それでは少しですが伝説を紹介していこうと思います。

 

植芝盛平は桁外れな怪力だった!

身長は156cmながら、体重は80kgくらいはあったといわれています。

ここで怪力のエピソードをまとめます。

  1. 片腕に柔道家が二人ぶら下がっても耐えられる(植芝70歳、柔道家二人150kg)
  2. 消防隊が植芝の胸に全力でぶつかるがびくともしない
  3. 怪力自慢が抜けない木を一人で引き抜く
  4. 8人が協力しても抜けない黒松を一人で引き抜く
  5. 三十人で動かせない大木を一人で持ち上げる(本当なら怪力という話ではない)

ちょっと信じられないですよね。

でも実際に見たという話もたくさんあるようです。

最後の三十人で動かせない大木を一人で持ち上げるというのは力が強いとかそういう類の話ではなくなってくると思います。

しかも「爪楊枝ほどの軽さだった」との発言から、人間離れしていることが想像できます。

植芝盛平のエピソードは超能力としかいえない現象が多々起きています。

 

植芝盛平に鉄砲は当たらない!

某日、植芝道場へ軍の関係者と鉄砲の検査官数名が見学にきました。

その検査官というのは実際に撃ってみて、銃身が右に左に曲がってると判断する人です。

その検査官を前にした植芝盛平は「鉄砲は当たらん」と言ってしまいます。

プライドを傷つけられた検査官たちは、「本当に当たらないのか」と詰め寄ります。

植芝「当たらん」

検査官「それでは試すがいいか」

植芝「けっこう」

その場で誓約書を書かされ、拇印まで押すことになった植芝盛平。

射撃場に着くと六人揃って銃を撃つという。

ピストルの有効射程距離は25m。

その距離に人形の的がおかれているが、今回はそこに植芝盛平が立つことに。

こんな漫画や映画のような話があるだろか…

25mという距離です。

  1. 検査官がピストルを構え
  2. 六つの銃口が一斉に火を吹くと
  3. 砂ぼこりが舞い上がった瞬間、六人中一人が宙を舞った。

??

25m離れていますよね?

植芝盛平はいつの間にか六人の後ろに立って、笑っていたのである。

納得のいかない検査官はもう一度とやらせてくれと。

そのもう一度では端の人が投げられて宙に舞い、植芝はまた後ろに立っていたという。

この話が本当ならですよ、何が凄いかって、銃弾に当たらないのはもちろんですが、

25mを瞬間的に移動して、人を投げていることです。

これが人間にできるのでしょうか?

では全て作り話なのでしょうか?

これを語っているのは植芝盛平の高弟である塩田剛三です。

では塩田剛三の作り話なのか?

私は信じたいと思います。

皆さんはどうでしょうか。

 

植芝盛平の合気道は本当に強かった

植芝盛平の合気道が最強ということで調べていくと、昔の合気道と今の合気道を比べることに意味はないと分かりました。

つまり、昔は稽古の量や質、習う人間のレベルが違うのです。

最初からある程度強い人間が、さらに強い人間から学ぶのですから、それは一般のレベルと比べても意味はありませんね。

現代の合気道は、老若男女が誰でも楽しめ、誰でも取り組める武道を目指したものと変わっていきました。

こういった流れから、現在は本当に強かったころの合気道を見ることはできそうにないのです。(例外はあると思います)

昔の合気道には本当に強い人間が存在していました。

それがわかるエピソードを紹介します。

 

柔道のチャンピオン阿部謙四郎を組み伏せる!

阿部謙四郎という人物は柔道家であり、合気道家、剣道家です。

  • 阿部謙四郎は柔道の試合で柔道史上最強といわれた木村政彦を破ったことがある
  • その阿部謙四郎は植芝盛平に組み伏せられらた

事実を並べ、強さを比較すると

植芝盛平>阿部謙四郎>木村政彦

こういったことになります。

これだけでも十分強いことの証明になりそうですね。

では「植芝と阿部の出会い」についてセリフを交えながら説明します。

夜汽車に乗り、柔道の試合に向かっていた阿部謙四郎。

その向かいの席に、老人が座っていた。

目が合うと老人が話し始める。

  • 植芝「私は君を知っている」
  • 阿部「柔道のチャンピオンですから」

その老人に名前を尋ねた阿部。

  • 阿部「あなたの名前を教えてください」
  • 植芝「植芝盛平だ」
  • 植芝「この小指を折ってみろ」

阿部はその非礼にいらついて、思い切り小指を握るとその瞬間、阿部は車両の床に組み伏せられてしまったのだ。

阿部はすぐさま植芝に弟子入りし、十年間も合気道を習うことになる。

この強者二人が汽車の中で面と向かって座っているなんて、会うことが宿命だったようですね!

なんともドラマチックな出会いではないでしょうか。

 

練兵場で大人数から襲撃を受けるが返り討ち!

植芝盛平はある日、練兵場で襲撃を受けます。

道場破りというか、なんというか、卑怯な手を使ってもトップの人間を倒してやるって感じが凄いですね。

  • 襲撃者の数なんと30人前後
  • 30人が木刀や木銃などの武器を持っていた

 

この人数相手に植芝盛平はどう戦ったのか?

  • 四方八方から襲ってくるのをひらりと体をかわし
  • ちょいと突ついて面白いように転がした
  • 5、6分で息切れし30人は戦意喪失

 

ということで、植芝盛平の勝ちですね。

木刀や木銃は結構重いらしいので、植芝盛平が相手の攻撃を避けている間に、相手は疲れ果てて戦意を喪失したようです。

相手には攻撃させて疲れさせ、自分は疲れないように立ち回るといった感じでしょうか。

それにしても、相手は本気で木刀や木銃を振り回してきたでしょうから、それを避け続けるというのは、真似できることではありません。

襲ってきた集団は植芝盛平から武術を習っていた生徒だったそう。

力試しをするために襲ったという話があります。

それにしても植芝盛平の強さを感じ取れる内容でしたね。

 

合気道の開祖「植芝盛平」の伝説とは?:まとめ


今回は合気道の開祖、植芝盛平の伝説について書いてきました。

合気道の初期のころを知れたという感じで、非常に記事を書いていて楽しく思えました。

普通では考えられない内容もありますが、それを含めて植芝盛平はとても魅力ある人間だと思います。

合気道というと植芝盛平の高弟、塩田剛三の方が名前は知られていませんか?

ですがその塩田剛三の師匠に当たる植芝盛平の伝説の話は、調べてみるととても面白くて、内容もすごいことに気づきます。

そしてこの時代の人たちを調べると、こちらもすごい名前がたくさん出てくるんですよ。

  • 大気拳創始者  澤井健一
  • 極真会館創始者 大山倍達
  • 講道館柔道七段 木村政彦

トップの武道家たちはどこかでつながっているものです。

開祖というか、始祖というか、そういった方々が日本で色々な格闘技、武道、武術を広めた時代だったんだなと思います。

他の方の記事もいずれ書きたいと思います。

最後までお読みいただきありがとうございました!